という理由だった。
どうも、ぺーです。
今回はリストカット願望者の、
リストカットに憧れる、その真意に迫ってきました。
刃物などで自分の手首などを切りつける自傷行為、
リストカット リストカットとは - はてなキーワード
そんな人いるの?
って考えはもう古いのかもしれません。
実は、意外と周りにも多いリストカッター。
そして驚くのは、リストカットまでは踏み切れないけれど、願望はある、
リストカット願望者(Dさんインタビューから引用)
というリストカッター予備軍に当たる新しいクラスタの存在。
今回は社会に潜む、リストカット願望者の真意に迫ってきました。
目次
リストカット願望者ってどんな人?
今回インタビューさせて頂いたのは大学生のDさん。
リストカット願望歴は7年ほどだそうです。
高校時代
「切りたいなって思ったのは、2009年ぐらいに朝日新聞の夕刊で南条あやさんの記事を見てから」
南条あやとは、
90年代後期のメンタルヘルス系と言われるネットアイドル、フリーライター、リストカッター。
リストカット等の衝撃的な内容をその文才で綴った自身のブログは当時ネット上のメンタルヘルス界で人気を博しました。南条あや - Wikipedia
朝日新聞 2009年12月16日 夕刊 (Dさんが出会った記事より引用)
「3歳のとき、親が離婚し、父に育てられた。小学校でいじめにあい、高学年は不登校。中1のときクラスで孤立し、手を切ったのが始まり。かばんに大量のクスリを持ち歩き、教室で砕いて鼻からストローで吸い、屋上から飛び降りようとした。
深夜、わざわざ二の腕を縛り、静脈を切って、びゅわと噴き出す血を眺めていた南条。孤独な10代にとって、ぎりぎりまで体を傷めることが生を確かめる手段だったのか。」
この記事に出会った当時のDさんは高校生。
何も問題なく過ごしていた中学時代から一転、
高校では苦しい日々を過ごしていたと振り返ります。
Dさんによると
「チャラ男とオタクの二分化されたクラスに突然放り込まれ、
自分が馴染める居場所がなく、スクールカーストの下の下になった」
クラス内でいじめを特に受けていたわけではないDさん。
しかし、その孤独感が募りに募った時、南条あやの存在と偶然出会いました。
「切る」ってことは南条あやと同化すること
当時の自分と環境が似ており、
またその気持ちをブログで美しい文才とともに表現する南条あやに傾倒していったDさんは、
リストカットへ強烈な憧れも同時に抱いていきました。
すでに故人となっていた南条あやですが、
リストカットを行えば、自分と南条あやが一体化できると感じたと言います。
切ることで南条あやに追いつき、
自分の至らなさを払拭し、
「高校の同級生達よりも自分が高尚な人間であることを立証したかった」
そして、リストカットに関連するいくつかのことを試みていたそうです。
・リストカット小説の執筆
→自分を投影する小説の主人公に切らせることで、リストカットを疑似体験する。
・鍵を手首に押し当てる
→内出血するまで鍵を押し当てる。
*鍵を押し当て内出血する再現
就活
大学に入りサークル活動などに打ち込んだDさんは、
充実した大学生活を送れたと語ります。
そして、次第にリストカット願望も薄れていきました。
しかし、就職活動中、様々なストレスに苛まれる中、
たまたま腕の切り傷から垂れる血液の美しさを見て、またその熱が蘇ります。
就活の苦しさを身体に埋め込んで、一生忘れたくない
「就活が終わったらリストカットをしようと決めていた」
と語るDさん。
辛く厳しい就職活動での経験を2度と忘れないため、
いつでも見て思い出せるようにと、
傷という形で身体に刻み込もうと決めていたそう。
傷を入れようと決めていた部分まで教えてくれました。
「忘れちゃいけないしんどさを記憶(身体)に残す」
「翻弄された自分を忘れたくない」
高校時代とはまた違うリストカット感を語るDさん。
なんでリストカットをしたいのか?
リストカットって自分を傷つける手段じゃない
では何故、リストカットという手段にDさんは憧れ続けるのでしょうか。
リストカット=体を傷つけるもの
という認識はありません。
体を傷つけることは目的ではなく、
自分の願望を叶えるための手段でしかないと語ります。
高校時代であれば、
南条あやに憧れ、一体化するために。
就活中であれば、
その経験を体に刻み込んで一生忘れないために。
リストカッターとリストカット願望者との違い
Dさんは、
「自分は自称メンヘラで真のメンヘラじゃない」
といいます。
常にメンヘラ的なものへの敬意、憧れ、シンパシーを感じ、
自身のことをただのメンヘラファンだと形容しました。
死にたい、しんどい、切って安心したい、
という気持ちがメインではなく、
あくまでリストカットを憧れるものへ近づく手段とするDさん。
人からどう見られるか、人の目の存在から、
実際に踏み切ることはないようです。
その点で、
「心の深さは切る人とは比べものにならないぐらい浅い。その人たちは人の目を気にするという行為を通り越してるからこそ、リストカッター」
だと、自身とリストカッターを比較しました。
絶対に忘れたくないものでも、終わってしまうと忘れてしまう
最後にこんなことを語ってくれたDさん。
「当時は忘れたくない、と思っていたけれど、今だと当時感じていた痛みがなくなってしまう」
どこか寂しげに語るDさんにとってリストカットという方法は、
リストカット願望を持たない人にとっての思い出を大事に残したいという気持ちと根本的には変わらないのかもしれません。
リストカットをする人が多くいるのならば、それを願望に持つ人はそれ以上に多く存在しているのかもしれません。
そこで、リストカットは非道な行為から、当たり前の世界に生きている人でも共感できうる行為へと解放されます。
手段としてはあまりに過激なこの行為でも、
その一番深い根っこの部分を見てみると、
以外と「普通」な想いから湧き上がったものだとわかります、
傷を思い出として残したいという理由だった